2013年1月24日星期四

板垣退助とは

板垣退助とは

幕末の土佐(高知)藩士,明治期の官僚,民権運動指導者,政党政治家。高知城下に藩士乾正成の子として生まれた。幼名猪之助,通称退助,諱正形。号は無形。藩主山内容堂(豊信)の側用役から始まり藩の要職を歴任。慶応3(1867)年,京都で中岡慎太郎と協力し薩摩藩と密かに私的な討幕盟約を結んだが,藩の路線に反し,要職を外された。戊辰戦争では土佐藩軍司令,東山道先鋒総督府参謀に任じ甲斐,北関東,会津に転戦,この時期に乾姓から先祖の旧姓板垣に復した。藩では家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進。明治4(1871)年御親兵編成に参画,廃藩置県後参議。西郷隆盛らと留守政府を預かったが,征韓論争で敗北し辞職。7年1月東京に愛国公党を組織,後藤象二郎ら下野参議らと民選議院設立建白書を提出したが却下され,帰郷して立志社を設立,士族教育・授産事業を展開した。8年参議に復帰したが,間もなく辞職。西南戦争(1877)に際して西郷軍へ呼応する機会をうかがったが成らず,立志社の獄を結果した。 10年,国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出したが,却下された。その後,愛国社再興運動から国会期成同盟へと運動を進めて自由民権運動の全国的拡大に貢献。14年政変と国会開設の詔が煥発されたのを機に自由党を創設,総理に就任,以後全国を遊説して党勢拡張に努め,15年岐阜遭難事件では,負傷しながらも「板垣死すとも自由は死せず」と暴漢を叱咤したと世間に華々しく喧伝された。この年,外遊資金の出所疑惑で自由党は大混乱に陥ったが,欧州の憲政事情研究の名目で後藤とふたりで外遊。16年6月帰国。時に各地で過激な突出事件を起こし党の統制は混乱を極め,17年決断して自由党をいったん解党した。華族制度に批判的だったが,20年固辞しきれず伯爵を受爵。条約改正反対運動では伊藤内閣の政治姿勢を厳しく批判。22年2月,憲法発布され,議会開設は翌年に迫った,戦国IXA RMT。高知にいた退助は,愛国公党を再興して自由党再建を図る。23年旧自由党諸派は立憲自由党として結束,24年3月党名を自由党と改称,推されて総理に就任した。第2次伊藤内閣の内相に就任(1896)。31年,最初の政党内閣である憲政党大隈(隈板)内閣の内相を経歴,33年9月,立憲政友会の成立を機に政界を隠退した。晩年は清貧の生活を続けながら社会改良運動に専念。また39年「一代華族論」を公表して華族制度批判の意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退した。『板垣退助全集』板垣退助監修『自由党史』

(福地惇)

天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民選議院設立建白書を提出。帰郷して立志社をおこし,自由民権運動を指導した。14年自由党を結成して総理。24年再結成された自由党の総理。29年第2次伊藤内閣の内相。31年大隈(おおくま)重信と隈板(わいはん)内閣をつくり,内相。伯爵。33年政界を引退し,社会改良運動につくした。大正8年7月16日死去。83歳。初姓は乾(いぬい)【格言など】われ死すとも,自由は死せず(明治15年,刺客に斬りつけられて)

1837‐1919(天保8‐大正8)

幕末・明治期の政治家。土佐藩出身,maplestory RMT。旧姓乾(いぬい)。名は正形,退助は通称。1861年(文久1)江戸藩邸詰となり,ついで山内容堂の側用役などをつとめた。討幕運動を推進。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し,会津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動展開の契機をつくった。
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